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自分らしい人生を歩んでいきたい。

東南アジアのタイを初めて訪れたのは、確か高校2年の夏休みの終わり。写真には、うっすらと ’86,8,24 と見えるから間違いないだろう。それまでのバイトで貯めた全財産をもって、友達5人との大冒険だった。

当時のバンコクは、どこに行くのも船で、まだまだチャオプラヤ川で泳いでいる子供たちもたくさんいた。見るもの、聞くもの、食べるもの・・・、そのすべてが驚きで、今も、これに勝る旅の思い出はない。

それから時は流れ、2000年を過ぎたころ、会社からの命令で頻繁にタイへ出張した。折しも世間はアジアンブーム。デザイン会社にいた僕は30歳を過ぎ、依頼されたホテルや店舗に用いる家具やインテリのアイテムを探すのが目的だった。

そのため、バンコク(大都市)より、家具や雑貨の生産地--つまりは田舎(地方)に滞在することが多かった。下の写真は当時のもので、スコータイ、その下はアユタヤ近郊で、仕事の合間にも有名な史跡旧跡を訪ねた。

そんな出張が年に4~5回、それが5~6年続いた。が、どんなに通っても、どうしても慣れなかったのがパクチーだった。しかし、パクチーが入っていないタイ料理は皆無に等しい。田舎で、しかも老婆が一人でやっているような屋台では「Please do not put phakchi(パクチーを入れないでください)」はおろか「No phakchi(ノー! パクチー!! )」の英語すら通じない。しかし、当時の私が話せるタイ語といえば「サワディカープ(こんにちは)」くらい。身振り手振りで、やっと伝わった!と安心するも、パクチー入りのラーメンが出てきた――なんてことは日常茶飯事。

そうなればますますパクチーがイヤになる。というより、わずかな匂いにも反応して食べれない始末で、ちょっとしたノイローゼ状態に陥った。できるだけ、タイ料理を食べないようにしたが、滞在している田舎にはコンビニはなく、ほかの料理もない。

せっぱ詰まって最初に覚えたタイ語が「マイサイパクチー(パクチー抜きで)」だった。同時に「「マイサイナムケン(氷抜きで)」を覚えた。当時のタイの地方では飲み物に入っている氷にも注意しなければならなかったからだ。そして、これによって食生活は一気に解決した。

その後も、挨拶や数字に始まり、「トイレどこ?」や「~が食べたい」「~へ行きたい」「~が欲しい」など、日常生活に必要な言葉を一つ一つ覚えた。行ったり来たりの出張が終わるころには、一人で買い物に行って、食事をして、タクシーで帰ってこれるほどになった。

それが嬉しくて、休日になれば、いろんな所に一人で出かけた。すでに染織に興味があったので、タイシルクやチェンマイコットンの産地も旅した。が、そのどれもが聞き覚え。つまりは“耳コピ”である。正直のところ、正しく伝わっていたかも分からない。

そして、そのうちにアジアンブームは下火となり、次第に出張も減り、タイ語に触れる機会は失われていった。

そして、それからまた十数年の月日が流れ、齢50を過ぎた。当時は小さかった息子は巣立ち、さぁ!これから何をしようか⁉ と考えたとき、頭をよぎったのがタイ語だった。「えッ⁉ 染織を極めるんちゃうんかい⁉」 って、つっこまれそうだが、そうではない!

染織(物づくり)ばかりしていると、頭が疲弊するからだ。もはや染織や物づくりは趣味ではなくて仕事である。一日中、作ることばかりを考えていると、本当に疲れてしまう。歳をとって集中力はもとより、発想力や想像力も低下した。“物づくりから離れられる時間がほしい” と考えるようになった。

そんな話を知人にしたら「楽器か外国語ができたら人生観が変わる」といわれた。子供のころから音楽はダメだったので、“では外国語にしよう!と思ったとき、真っ先に浮かんだのがタイ語だった。

「そうや!あんとき、ちゃんと勉強せえへんかったタイ語をもっかい勉強しよう!」と。

毎朝、家を出て真っ先に向かうのが畑、そして仕事へ。それが終われば工房での物づくり――。さらに今春からは「阿波藍」の勉強も始め、ただでさえ忙しいのに、どこにタイ語を学ぶ時間があるのか?と自分でもそう思っていた。が、この春からネイティブにタイ語を教えてもらえるチャンスに巡り合えた。

とにかく、初めてみようと思う。そして、いつの日にか再びタイの織り物産地をのんびりと旅してみたい。
そして、この歳になって改めて “自分らしい人生を歩んでいきたい” と心から思う。

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