前橋で日本製の力織機(自動織機)を引き取ったあと、その帰路に「富岡製糸場」へ立ち寄りました。
染織に関わる者としては前々から「いつかは行ってみたい!」とは思っていた富岡製糸場。前回のブログ『前橋へ、日本製の力織機を迎えに行く』にも書きましたが、生まれも育ちも大阪である僕には、関東の地の利がないので、事前に地図を調べてみると前橋と富岡が近いことを知りました。ならば行くしかない!と、予定を変更してまで訪ねてみることにしました。
というのも、ひとつ屋が参考にしているのが“明治の物づくり”だからなんです。草木染を伝統工芸や趣味だけで終わらせず、日常に使える布や製品として育てていく――、その生産性とクオリティのバランスを“明治時代の人の手と器械が一緒に働く生産の形”に見出したのでした。
その原点となったのは、今は世界遺産に登録されている「富岡製糸場」であり、このチャンスを逃せば今度いつ来られるかわかりません。軽トラに大きな荷物を積んでいくのは少し恥ずかしかったのですが、ついに憧れの地を訪ねることにしました!
▼ 富岡製糸場の外観。明治のものづくりを考えるために、一度は訪ねたい場所でした。


富岡製糸場に着いて、まず驚いたのが、その規模の大きさでした。長さ約140メートルの繰糸所に、300釜の繰糸器が並んでいたといいます。当時の製糸工場としては“世界最大規模”だったそうです。
明治時代のはじめに、これほどの工場をつくった――。その事実だけでも、当時の人々が新しい時代に向かっていこうとした熱量を感じます。
▼ 長い繰糸所の内部。ここに多くの繰糸器が並び、本格的な器械製糸が行われていました。

▼ 創業当時の繰糸所内。この錦絵のままの空間が今も残っていることに感動しました。

富岡製糸場は、ただ生糸をつくるだけの場所ではありませんでした。
フランスの製糸技術を取り入れ、外国人技術者から学び、全国から集まった工女たちがその技術を身につけ、学んだ人たちが郷里へ戻り、器械製糸を広げていく――。つまりここは、製品をつくる工場であると同時に、技術を学び、伝える場所でもありました。
ひとつ屋も、ただものをつくるだけではなく、染めること、織ること、道具や器械を直すこと、その一つひとつを記録し、次へつなげていきたいと思っています。だからこそ、富岡製糸場の役割には強く惹かれました。
▼ 富岡製糸場は製糸の工場であると同時に、技術を学び広げる場所でもありました。

展示されていた昔の写真や錦絵も、とても印象に残りました。
錦絵に描かれた富岡製糸場には、新しい時代への期待が込められているように見えます。赤レンガの建物、器械、働く人々。そこには、明治の人々が見た「これからのものづくり」の姿があったのだと思います。
しかし、富岡製糸場を“明治の成功物語”としてだけ見ることはできません。
製糸業を支えたのは、多くの働く人々でした。特に、若い女性たちの労働は大きな役割を持っていました。
1979年の映画『あゝ野麦峠』に描かれているように、明治から大正にかけての製糸業には、貧しい農村から働きに出た若い女性たちの厳しい現実もありました。長い労働時間、慣れない工場生活、家族を支えるための出稼ぎ。近代化の歩みは、明るい希望だけでなく、そうした人々の負担の上にも成り立っていました。
逆にいえば、ひとつ屋が目指す“人と器械が生み出す物づくり”の影の部分なのかもしれません。
だから、ここで感じた熱量は、単純な“すごい!”という感動だけではありません。
新しい技術を学び、時代を前へ進めようとした力。
その一方で、それを支えた人々の労働と暮らし。
その両方を見なければ、富岡製糸場の意味は見えてこないのだと思います。
▼明治後期〜大正期の繰糸所内(片倉工業寄託資料)製糸業の発展は、多くの働く人々、とくに若い女性たちの労働に支えられていました(※ この写真が『あゝ野麦峠』で描かれた劣悪な環境というものではない)。

僕たちの世代は、学校で「日本は小さな国」「資源の少ない国」「欧米に比べて遅れていた国」という言葉を、何度も聞いてきました。もちろん、それは一面の事実です。近代工業化の出発は欧米より遅く、資源にも限りがありました。
でも、富岡製糸場を歩きながら、少し違う見方も必要だと感じました。
遅れていたから、ただ追いつこうとした。
小さかったから、大きなものに負けないようにした。
それだけではなく、当時の人々は、知らない技術を学び、自分たちの仕事に取り入れ、暮らしや産業の形を変えようとしていたのではないか――。
その姿勢は、今のものづくりにも必要だと思います。
これは、過去を誇るためだけの話ではありません。まして、何かを美化するための話でもありません。
足りないものがあるなら、作る。
分からないことがあるなら、学ぶ。
うまくいかなければ、やり直す。
そして、自分たちの仕事として根づかせていく。
富岡製糸場で感じたのは、そのような明治のものづくりの姿勢でした。
一方で、現地を歩いていて気になったこともあります。
それは、世界遺産であり、日本の近代化を語るうえで大切な場所であるにもかかわらず、建物にはかなりの傷みが見えたことです。もちろん、古い建物を残すことは簡単ではありません。保存には費用も技術も時間も要します。残すということは、口で言うほど簡単なことではないでしょう。それでも、これほど大切な場所を、これからどう守り、どう伝えていくのか。そのことも、強く考えさせられました。
人の手と器械が一緒に働く生産の形。今回の旅で見たものは、これからのひとつ屋のものづくりを考えるうえで、大きな手がかりになりました。
そして、この旅は、もう一つの場所へ続きます。次に訪ねるのは名古屋の「トヨタ産業技術記念館」です。
富岡製糸場で感じた明治の熱量から、繊維機械の進化、そして“ものづくり大国”の歩みへ。
今回の旅は、まだ続きます。