投稿者: hitotsuya

  • 風呂敷(藍染/木目絞り)

    風呂敷(藍染/木目絞り)

    先日来、コツコツと作っていた藍の絞り染め風呂敷がやっとできました。やっぱり、僕は、こういう雰囲気のものが好きです。


    これは、絞り染めのなかでも最も単純な技法の一つで「木目(もくめ)絞り」と呼ばれるもので、1cmほどの間隔で、ただひたすら波縫いをして絞っていきます。今回は市松模様にし、絞り柄も交互になるよう配しました。


    ▼まずは、風呂敷に縫い目を下書きします。

    ▼この線に沿って、できるだけ細かく波縫いします。

    ▼全ての波を終えると、順番に絞っていきます。

    ▼全てを絞り終えた状態です。

    ▼これを藍で染めます。

    ▼布を切らないように、糸を解けば完成です。

    と、まぁ、作業としては、さほど難しくはないのですが、とても根気にいる工程が続きます。昔は、農家の囲炉裏端などでコツコツ縫ったんでしょうね。行灯や蝋燭の明りの下で・・・。LED電灯のもと、メガネをしても大変なのにーー。昔の人って、やっぱりすごいなぁ~ と、つくづく実感します。

  • 初代 通天閣(大阪市)

    初代 通天閣(大阪市)

    大阪城とならぶ “なにわのシンボル” といえば、なんといっても「通天閣(つうてんかく)」です。このブログでも何度も紹介していますが、今回は少し視点を変えて、初代 通天閣について紹介します。

    ▼ これが初代の通天閣です。
    初代 通天閣(大阪市)

    この通天閣が建てられたのは、今から100年以上も前の明治45年(1912)、第5回内国勧業博覧会の跡地に造られた「新世界ルナパーク」という遊園地のシンボルとして建てられました。パリの「凱旋門」の上に「エッフェル塔」を乗せたという、ちょっと変わったデザインで、その高さは64m。当時としては東洋一のタワーとなりますが、本家のエッフェル塔が312mというから、5分の1ほどしかありません。それでも、当時の日本人には驚きで、通天閣から伸びる「針金渡り(ロープウェイ)」と呼ばれるアトラクションが人気を博したそうです。

    ▼ なるほど、凱旋門の上にエッフェル塔です。針金渡り(ロープウェイ)も写っています。
    初代 通天閣(大阪市)

    ちなみに、ルナパークには「サークリングウェーブ」と呼ばれる波動回転する遊戯や「不思議館」や「美人探検館」なるものがあり、当時は「低俗!!」との批判を受けたそうです。それでも、連日、多くの人でにぎわいました。その人気は大正時代の終わりまで続きますが、次第に下火になります。

    ▼ これが「ルナパーク」です。
    初代 通天閣(大阪市)

    さて、『通天閣』はというと、その後に建設された温浴施設とともに、その後も人々に愛されます。しかし、太平洋戦争が始まり、大阪への空襲が激しくなると、爆撃目標にされることを恐れ、全体を目立たない色に塗られます。しかし、皮肉にもその最期は空襲でなく、昭和18年(1943)1月、足元にあった映画館からの出火で全焼――。同年2月には解体され、スクラップとなった通天閣は、戦時下ともあって大阪府に供出されてしまいます。

    その総量は300トン。一説によると、出火原因は金属不足に悩む軍部による放火だったとか――。あくまで噂で、その真相は歴史の闇の葬られてしまいました。

    太平洋戦争末期、度重なる空襲で焦土と化した通天閣周辺ですが、戦後、街の復興とともに再建が望まれ、昭和31年(1956)10月に十数年の時をへて人々の前に姿を現し、現在にいたるまで大阪の人々に親しまれています。

    ▼ 二代目、現在の通天閣。
    初代 通天閣(大阪市)

    2代目の通天閣は初代をはるかに超える高さ103mと、その威容は名実ともに“なにわのシンボル”となりましたが、再建から50年の時が過ぎた今では、ビルの谷間に垣間見える存在になってしまいました。それでも、今なお人々に愛されている通天閣。平和のうちに100周年を迎えたいものです。

    ※ 通天閣の古い写真は、ジャンジャン横丁(商店街)で公開されていたものです。

  • 『あべのハルカス 三十六景』 第七景 「新木津川大橋」

    『あべのハルカス 三十六景』 第七景 「新木津川大橋」

    葛飾北斎の『富嶽三十六景』にちなんで始めた『あべのハルカス 三十六景』。第七景となる今回は大阪市の西南部を流れる木津川に架かる「新木津川大橋」からの眺めです。

    『あべのハルカス 三十六景』 第七景 「新木津川大橋」

    『あべのハルカス 三十六景』 第七景 「新木津川大橋」
    両岸に工場が建ち並ぶ木津川は、古くから人の手によって開削された、いわば“人工の川”です。この写真を撮った新木津川大橋の付近は最も河口で、海の香りが漂い、潮の干満の影響を受ける汽水域です。

    江戸時代には、菱垣廻船(ひがきかいせん)や樽廻船(たるかいせん)が往来し、錦絵(浮世絵)にも描かれるほど風光明媚な場所で、人々が夕涼みを楽しんだようです。

    『あべのハルカス 三十六景』 第七景 「新木津川大橋」


    時代は下って、第一次世界大戦後--。両岸に数多くの造船所が建設されて重工業地帯として変貌していきました。同じころ、この橋のたもとには「木津川飛行場」という空港があったようです。最盛期には大阪と東京、福岡を結ぶ旅客機も就航していたそうです。

    『あべのハルカス 三十六景』 第七景 「新木津川大橋」

    ▼ 木津川飛行場(1929年/昭和4年)
    『あべのハルカス 三十六景』 第七景 「新木津川大橋」

    しかし、前回の『あべのハルカス 三十六景』 第六景 「津守新田物語」でも書いたとおり、恐らくここも室戸台風で大きな被害を受けたのでしょう—、台風に襲われた1934年(昭和9年)には八尾空港に、さらに’35年には伊丹空港へと、その機能が移されて閉鎖されてしまいます。今では、この上を大きなジェット機が関西国際空港(関空)に向けて過ぎていきます。

    時代とともに、その役割りを変化させてきた木津川――。この写真を撮った新木津川大橋も、完成した1994年(平成6年)当時、国内では最長のアーチ橋だったそうです。産業構造が変わってしまった今、この辺もかつての賑わいを失ってしまいました。

    でも、僕が子供のころには生き物も住めないほどに汚された“死の川”だったのが、今では随分ときれいになりました。いつの日か、江戸時代のように、屋形船が行き交い、人々が夕涼みにくるような川になることを願っています。

  • はぎれを染める

    はぎれを染める

    今回も地味な制作風景です。下の写真は、伸子に張った布を引き染めしているところです。実は、毎日こうして布で何かを作っていると、はぎれが溜まるんです。捨てるに捨てられず、何かを作るにも小さすぎる––なんていう生地が、ダンボール箱にいっぱいあるんです。

    はぎれを染める。

    そこで、いろんな色に染めて、パッチワークのTシャツを作ってみよう!と、小さなハギレばかりを染めています。さて、どんな作品ができのか!?  今はオレンジ色ですが、まだまだいろんな色を染めなければならなので、作品を紹介できるのは、だいぶ先になりそうですが、楽しみにしていてください。

  • 青海波のTシャツ

    青海波のTシャツ

    以前のブログ『ただ今「うずしおTシャツ」思案中です』で “鳴門の渦潮” をイメージしたTシャツを作ろうと、あれやこれやと思案しているのですが、なかなか納得できるものにならない! というような内容の投稿をしました。

    ▼ そのときのTシャツのデザイン案です。

    青海波のTシャツ

    それからも考えた末に、色分けしたラインを型染(捺染)で表現しようと思っているのですが、ベタっとした面を作るより、せっかくの型染なので青海波(せいがいは)の模様を加えようと考え、その型紙を彫り始めました。

    青海波のTシャツ

    まるで蛇の鱗のように、重なり合いながら続くのは「青海波」と呼ばれる伝統的な模様で、もともとは雅楽『青海波』で着用された衣装に施されたものだそうです。その名のとおり、広い海に絶えず繰り返される穏やかな波をイメージした模様は、平穏な暮らしが続くようにという願いが込められた“吉祥文様”です。

    ▼ 穏やかな波を表現した「青海波紋」
    青海波のTシャツ

    と、由緒ある模様なのですが、整然と繰り返されることに美しさのある青海波文を手作業で型紙に彫るのには、とても苦戦しています。ふ~ッ😮‍💨 先日の絞り染めと同様(『絞り染めの風呂敷』)、毎日 少しずつ作業して進めています。でき上がりを楽しみにしていてください!