大阪城とならぶ “なにわのシンボル” といえば、なんといっても「通天閣(つうてんかく)」です。このブログでも何度も紹介していますが、今回は少し視点を変えて、初代 通天閣について紹介します。
▼ これが初代の通天閣です。
この通天閣が建てられたのは、今から100年以上も前の明治45年(1912)、第5回内国勧業博覧会の跡地に造られた「新世界ルナパーク」という遊園地のシンボルとして建てられました。パリの「凱旋門」の上に「エッフェル塔」を乗せたという、ちょっと変わったデザインで、その高さは64m。当時としては東洋一のタワーとなりますが、本家のエッフェル塔が312mというから、5分の1ほどしかありません。それでも、当時の日本人には驚きで、通天閣から伸びる「針金渡り(ロープウェイ)」と呼ばれるアトラクションが人気を博したそうです。
▼ なるほど、凱旋門の上にエッフェル塔です。針金渡り(ロープウェイ)も写っています。
ちなみに、ルナパークには「サークリングウェーブ」と呼ばれる波動回転する遊戯や「不思議館」や「美人探検館」なるものがあり、当時は「低俗!!」との批判を受けたそうです。それでも、連日、多くの人でにぎわいました。その人気は大正時代の終わりまで続きますが、次第に下火になります。
▼ これが「ルナパーク」です。
さて、『通天閣』はというと、その後に建設された温浴施設とともに、その後も人々に愛されます。しかし、太平洋戦争が始まり、大阪への空襲が激しくなると、爆撃目標にされることを恐れ、全体を目立たない色に塗られます。しかし、皮肉にもその最期は空襲でなく、昭和18年(1943)1月、足元にあった映画館からの出火で全焼――。同年2月には解体され、スクラップとなった通天閣は、戦時下ともあって大阪府に供出されてしまいます。
その総量は300トン。一説によると、出火原因は金属不足に悩む軍部による放火だったとか――。あくまで噂で、その真相は歴史の闇の葬られてしまいました。
太平洋戦争末期、度重なる空襲で焦土と化した通天閣周辺ですが、戦後、街の復興とともに再建が望まれ、昭和31年(1956)10月に十数年の時をへて人々の前に姿を現し、現在にいたるまで大阪の人々に親しまれています。
▼ 二代目、現在の通天閣。
2代目の通天閣は初代をはるかに超える高さ103mと、その威容は名実ともに“なにわのシンボル”となりましたが、再建から50年の時が過ぎた今では、ビルの谷間に垣間見える存在になってしまいました。それでも、今なお人々に愛されている通天閣。平和のうちに100周年を迎えたいものです。
※ 通天閣の古い写真は、ジャンジャン横丁(商店街)で公開されていたものです。
今の通天閣は2代目だったんですね!
とてもいい勉強になりました。
コメントありがとうございます。
こうしたお言葉を頂戴すると、頑張って調べた甲斐がございます!
本当にありがとうございました。
初代通天閣は全く趣向の異なるものだったんですねー。
たいへん参考になりました!
ありがとうございました。
Twitterで引用させて頂きますね。
もしご都合悪ければご指摘くださいませ。
めぇめさん、こんにちは。
ひとつ屋のblogをご覧いただき、ありがとうございます。
初代の通天閣はエッフェル塔と凱旋門を合体させたデザインですが、町もパリの凱旋門のように通天閣を中心に放射状になっているんですよ。
昔の人の“新しいものを取り込もう(勉強しよう)”という向上心やバイタリティーを感じます。
今は、当時を偲ばせてくれるものは、ほとんどないのが残念です。