タグ: 染太郎日記

  • 自然の造形美に感動!

    自然の造形美に感動!

    四季折々の自然から生まれた色やデザインを大切にする物づくりをしたいと考える ひとつ屋――。

    秋の台風が過ぎていった先日、まだ湿り気の残る工房の庭でとても美しいカタツムリを見ました。真珠のような光沢を放つ貝、それを縁取る曲線は数学的で、茶色とも紫とも違う色に魅了されます。自然が生み出す完璧なデザインに感動するばかりです。

  • 通天閣とその周辺

    通天閣とその周辺

    工房で作業するばかりの日々、今日は打ち合わせがあり、久しぶりに街なかへとやってきました。この後は、息子と懐かしい店での食事です。待ち合わせの時間までには、もう少し余裕があるので、遠回りをして大阪市立美術館へとやってきました。

    通天閣とその周辺

    この美術館が建てられたのは、戦前の1936年のこと。和洋折衷様式の建物で、その堂々とした佇まいが学生のころから好きで、機会があるごとに、この風景だけを見に来ます。そして、ここから眺める通天閣も好きです。

    通天閣とその周辺

    この美術館の一帯は大きな公園であり、裏には美しい「慶沢園(けいたくえん/日本庭園)」「茶臼山(ちゃうすやま)」、その下には「天王寺動物園」、そして大阪のシンボル「通天閣」、その周辺には「新世界」が広がります。

    ▼ コロナ禍の通天閣。
    通天閣とその周辺

    まさに、ここは大阪の人々にとって、明治時代以来の“憩いの場 & 観光スポット”でした。代々、大阪で暮らす我が家でも、祖父の時代から、父も、僕も、そして息子も、四代にわたってお世話になった場所です。

    父親になった僕も、子供が小さいころは午前中は美術館、午後からは動物園、そのあとは「新世界」で串カツを食べて、チンチン電車に乗って家に帰る――というのがルーティーンでした。

    通天閣とその周辺

    今日は、息子と通天閣の下で待ち合わせて久しぶりの串カツ。昔、帰りには私の背中で眠った息子とは、今はお互い仕事帰りの待ち合わせ。昨日のことのような思い出に、時の流れの速さを実感します。
    そして今日も、串カツでおなかいっぱいになった後はチンチン電車で帰宅です。で、いつもの駅に行ってみると、そこに駅がありません。少し離れた場所に、新しい駅が—。副駅名にも「通天閣前」とありました。

    通天閣とその周辺

    ▼ 以前は、こんな感じのレトロな駅で、ここでチンチン電車を待つのが好きでした。

    通天閣とその周辺

    一時は外国からの人でごった返していたこの辺りも、コロナの影響で今は人影もまばらです。そして河豚の形で有名な提灯の歴史にも幕が下されました。

    ▼ほんの数年前の通天閣と新世界。
    通天閣とその周辺

    今まさに、時代が大きく変化しようとしています。明治以来、大阪とここに暮らす家族の歴史を見続けてきた“通天閣とその周辺”。新たな時代にも、ここに笑顔があることを願っています。

  • 作れるけど、作らない

    作れるけど、作らない

    この数十年、少しでも安い品物を求めて、日本の物づくりの現場は移り変わり、今や生鮮食料品さえが地球の裏から届けられるようになりました。そればかりか、かつては世界を席巻した電化製品まで、すっかり “国産” が貴重品になり、まるでブランド品の扱いです。

    世界でも屈指の高品質を誇り、“ものづくり大国” を自負する国でありながら、 “made in Japan” の文字を見ることはありません。つまりは “作れるけど、作らない” もしくは “作れない” ということなのでしょう。

    作れるけど、作らない

    私には経済のことはわかりませんが、物づくりをする者として “作れるけど、作らない” 、そして“作れない” のは残念な気がします。

    私が何かを作るときも、外国からのものを使います。もちろん、電気やガスも使いますし、環境の負荷になる排出物もあると思います。さらに、人々(世界)は手を取り合って進むべきなのでしょうが、ただ “過ぎたるは及ばざるが如し” が肝心であることをコロナ禍で痛感しました。

  • 自分らしい人生を歩んでいきたい。

    自分らしい人生を歩んでいきたい。

    東南アジアのタイを初めて訪れたのは、確か高校2年の夏休みの終わり。写真には、うっすらと ’86,8,24 と見えるから間違いないだろう。それまでのバイトで貯めた全財産をもって、友達5人との大冒険だった。

    当時のバンコクは、どこに行くのも船で、まだまだチャオプラヤ川で泳いでいる子供たちもたくさんいた。見るもの、聞くもの、食べるもの・・・、そのすべてが驚きで、今も、これに勝る旅の思い出はない。

    それから時は流れ、2000年を過ぎたころ、会社からの命令で頻繁にタイへ出張した。折しも世間はアジアンブーム。デザイン会社にいた僕は30歳を過ぎ、依頼されたホテルや店舗に用いる家具やインテリのアイテムを探すのが目的だった。

    そのため、バンコク(大都市)より、家具や雑貨の生産地--つまりは田舎(地方)に滞在することが多かった。下の写真は当時のもので、スコータイ、その下はアユタヤ近郊で、仕事の合間にも有名な史跡旧跡を訪ねた。

    そんな出張が年に4~5回、それが5~6年続いた。が、どんなに通っても、どうしても慣れなかったのがパクチーだった。しかし、パクチーが入っていないタイ料理は皆無に等しい。田舎で、しかも老婆が一人でやっているような屋台では「Please do not put phakchi(パクチーを入れないでください)」はおろか「No phakchi(ノー! パクチー!! )」の英語すら通じない。しかし、当時の私が話せるタイ語といえば「サワディカープ(こんにちは)」くらい。身振り手振りで、やっと伝わった!と安心するも、パクチー入りのラーメンが出てきた――なんてことは日常茶飯事。

    そうなればますますパクチーがイヤになる。というより、わずかな匂いにも反応して食べれない始末で、ちょっとしたノイローゼ状態に陥った。できるだけ、タイ料理を食べないようにしたが、滞在している田舎にはコンビニはなく、ほかの料理もない。

    せっぱ詰まって最初に覚えたタイ語が「マイサイパクチー(パクチー抜きで)」だった。同時に「「マイサイナムケン(氷抜きで)」を覚えた。当時のタイの地方では飲み物に入っている氷にも注意しなければならなかったからだ。そして、これによって食生活は一気に解決した。

    その後も、挨拶や数字に始まり、「トイレどこ?」や「~が食べたい」「~へ行きたい」「~が欲しい」など、日常生活に必要な言葉を一つ一つ覚えた。行ったり来たりの出張が終わるころには、一人で買い物に行って、食事をして、タクシーで帰ってこれるほどになった。

    それが嬉しくて、休日になれば、いろんな所に一人で出かけた。すでに染織に興味があったので、タイシルクやチェンマイコットンの産地も旅した。が、そのどれもが聞き覚え。つまりは“耳コピ”である。正直のところ、正しく伝わっていたかも分からない。

    そして、そのうちにアジアンブームは下火となり、次第に出張も減り、タイ語に触れる機会は失われていった。

    そして、それからまた十数年の月日が流れ、齢50を過ぎた。当時は小さかった息子は巣立ち、さぁ!これから何をしようか⁉ と考えたとき、頭をよぎったのがタイ語だった。「えッ⁉ 染織を極めるんちゃうんかい⁉」 って、つっこまれそうだが、そうではない!

    染織(物づくり)ばかりしていると、頭が疲弊するからだ。もはや染織や物づくりは趣味ではなくて仕事である。一日中、作ることばかりを考えていると、本当に疲れてしまう。歳をとって集中力はもとより、発想力や想像力も低下した。“物づくりから離れられる時間がほしい” と考えるようになった。

    そんな話を知人にしたら「楽器か外国語ができたら人生観が変わる」といわれた。子供のころから音楽はダメだったので、“では外国語にしよう!と思ったとき、真っ先に浮かんだのがタイ語だった。

    「そうや!あんとき、ちゃんと勉強せえへんかったタイ語をもっかい勉強しよう!」と。

    毎朝、家を出て真っ先に向かうのが畑、そして仕事へ。それが終われば工房での物づくり――。さらに今春からは「阿波藍」の勉強も始め、ただでさえ忙しいのに、どこにタイ語を学ぶ時間があるのか?と自分でもそう思っていた。が、この春からネイティブにタイ語を教えてもらえるチャンスに巡り合えた。

    とにかく、初めてみようと思う。そして、いつの日にか再びタイの織り物産地をのんびりと旅してみたい。
    そして、この歳になって改めて “自分らしい人生を歩んでいきたい” と心から思う。

  • 春なのに

    春なのに

    高度成長のさなかに生まれ、オイルショック、バブル経済、そして平成大不況にリーマンショック。その間にも、阪神淡路大震災や東日本大震災など、さまざまな災害もあった。そのなかのいくつかは身をもって体験している。そして、この国で生まれ、この国に育ち、齢五十を過ぎた。

    春なのに

    が、この度の “新型コロナウイルス” は今までとは何かが違うような気がする。

    逃げ場がない。物資がない。予防できない。治療できない。どうすればいいのかわからない――という、ないない尽くし。

    あり余る品物と飽食、それにサービス。それらを使い捨てるように生きてきた。いつでも、どこでも、欲しいものは手に入ることの当たり前を享受してきた。

    それがままならず、世界は混沌としてりいる。まるで戦時下のようであり、言い知れぬ不安がよぎる。