久しぶりの京都です。といっても観光ではなく、仕事の打ち合わせでやって来ました。それでもこの町にいると、なぜか心が穏やかになります。相も変わらずの多忙な毎日ですが、今日は少しサボって古都を散策しようと思っています。


今も、物づくりやデザインの発想を得るため、また自らの感性を確かめ、育てるために、各地を訪ねています。そうした旅の途中で出会った風景や土地の気配、人の営みを綴った紀行文が「物づくり紀行」です。ひとつ屋主催の「壱つ屋染太郎」が、制作の背景にある時間として、各地で感じたことを書き残しています。

久しぶりの京都です。といっても観光ではなく、仕事の打ち合わせでやって来ました。それでもこの町にいると、なぜか心が穏やかになります。相も変わらずの多忙な毎日ですが、今日は少しサボって古都を散策しようと思っています。



先日、出張で静岡市に行ってきました。コロナのせいで、出張も久しぶりなら、新幹線に乗るのも久しぶり――。それよりも、大阪を出るのも久しぶりでした。今はテレワークやら、オンライン会議やら—と、便利にはなりましたが、旧人類の私(昔は”新人類”と呼ばれてたのに😖)には、実際に行って物を見て、顔を突き合わせて打ち合わせをするほうがよいようです。
出発は早朝の新幹線――。同行するスタッフと待ち合わせて、いざ!静岡へ!
さすが日本が誇る新幹線です! 新大阪から330㎞の距離をわずか2時間で結び、10時前には静岡に到着することができました。

打ち合わせの前に少し時間があったので、静岡駅から徒歩でも行けると聞いた「駿府城公園」を訪ねてみました。
▼ 東御門と巽櫓

駿府城は、あの徳川家康が息子の秀忠に将軍職を譲ったのちに隠居した城で、いわゆる”大御所政治”が行われた場所です。このとき城は天下普請によって大修築され、大変に豪華なものであったようですが、徳川の世の終わりとともに、建物や掘までが破壊され、往時を偲ばせるものは少なくなっています。
▼ ご存じ!徳川家康! 大阪人の私にはビミョ~な存在です。

▼ かつての駿府城。

明治時代になり、建物や掘割までもが破壊された駿府城ですが、今は本丸跡の発掘が進められ、新たな歴史施設として整備されようとしています。
▼ 発掘が進められている駿府城本丸跡。

打ち合わせの前のわずかな時間、急ぎ足で駿府城公園を巡りましたが、とても穏やかで素晴らしい場所でした。次は、もう少し時間をかけてゆっくりと巡りたいと思っています。
観光はこの辺にして、さぁ!打ち合わせの場所に向かうとします。

久しぶりに海辺にきました。といっても、大阪の “工業地帯の海” 。ですが、ここからは大阪市内から六甲山系が一望でき、とても気持ちのよい場所です。誰もいない橋の上で、マスクを外して、大きく息を吸い込み、そして、はき出してみると、こんな海でも空気が新鮮で、ホッとさせられます。

こうして眺めていると、いつもと変わらない風景だからこそ、目の前の巨大な都市が、目に見えないものに脅かされているとは思えません。
そんなもののために、恒例の行事もなくなり、寂しい年末年始を迎えます。早く、いつもの笑顔に会いたいです。

工房で作業するばかりの日々、今日は打ち合わせがあり、久しぶりに街なかへとやってきました。この後は、息子と懐かしい店での食事です。待ち合わせの時間までには、もう少し余裕があるので、遠回りをして「大阪市立美術館」へとやってきました。

この美術館が建てられたのは、戦前の1936年のこと。和洋折衷様式の建物で、その堂々とした佇まいが学生のころから好きで、機会があるごとに、この風景だけを見に来ます。そして、ここから眺める通天閣も好きです。

この美術館の一帯は大きな公園であり、裏には美しい「慶沢園(けいたくえん/日本庭園)」「茶臼山(ちゃうすやま)」、その下には「天王寺動物園」、そして大阪のシンボル「通天閣」、その周辺には「新世界」が広がります。
▼ コロナ禍の通天閣。

まさに、ここは大阪の人々にとって、明治時代以来の“憩いの場 & 観光スポット”でした。代々、大阪で暮らす我が家でも、祖父の時代から、父も、僕も、そして息子も、四代にわたってお世話になった場所です。
父親になった僕も、子供が小さいころは午前中は美術館、午後からは動物園、そのあとは「新世界」で串カツを食べて、チンチン電車に乗って家に帰る――というのがルーティーンでした。

今日は、息子と通天閣の下で待ち合わせて久しぶりの串カツ。昔、帰りには私の背中で眠った息子とは、今はお互い仕事帰りの待ち合わせ。昨日のことのような思い出に、時の流れの速さを実感します。
そして今日も、串カツでおなかいっぱいになった後はチンチン電車で帰宅です。で、いつもの駅に行ってみると、そこに駅がありません。少し離れた場所に、新しい駅が—。副駅名にも「通天閣前」とありました。

▼ 以前は、こんな感じのレトロな駅で、ここでチンチン電車を待つのが好きでした。

一時は外国からの人でごった返していたこの辺りも、コロナの影響で今は人影もまばらです。そして河豚の形で有名な提灯の歴史にも幕が下されました。
▼ほんの数年前の通天閣と新世界。

今まさに、時代が大きく変化しようとしています。明治以来、大阪とここに暮らす家族の歴史を見続けてきた“通天閣とその周辺”。新たな時代にも、ここに笑顔があることを願っています。

東南アジアのタイを初めて訪れたのは、確か高校2年の夏休みの終わり。写真には、うっすらと ’86,8,24 と見えるから間違いないだろう。それまでのバイトで貯めた全財産をもって、友達5人との大冒険だった。
当時のバンコクは、どこに行くのも船で、まだまだチャオプラヤ川で泳いでいる子供たちもたくさんいた。見るもの、聞くもの、食べるもの・・・、そのすべてが驚きで、今も、これに勝る旅の思い出はない。


それから時は流れ、2000年を過ぎたころ、会社からの命令で頻繁にタイへ出張した。折しも世間はアジアンブーム。デザイン会社にいた僕は30歳を過ぎ、依頼されたホテルや店舗に用いる家具やインテリのアイテムを探すのが目的だった。
そのため、バンコク(大都市)より、家具や雑貨の生産地--つまりは田舎(地方)に滞在することが多かった。下の写真は当時のもので、スコータイ、その下はアユタヤ近郊で、仕事の合間にも有名な史跡旧跡を訪ねた。


そんな出張が年に4~5回、それが5~6年続いた。が、どんなに通っても、どうしても慣れなかったのがパクチーだった。しかし、パクチーが入っていないタイ料理は皆無に等しい。田舎で、しかも老婆が一人でやっているような屋台では「Please do not put phakchi(パクチーを入れないでください)」はおろか「No phakchi(ノー! パクチー!! )」の英語すら通じない。しかし、当時の私が話せるタイ語といえば「サワディカープ(こんにちは)」くらい。身振り手振りで、やっと伝わった!と安心するも、パクチー入りのラーメンが出てきた――なんてことは日常茶飯事。
そうなればますますパクチーがイヤになる。というより、わずかな匂いにも反応して食べれない始末で、ちょっとしたノイローゼ状態に陥った。できるだけ、タイ料理を食べないようにしたが、滞在している田舎にはコンビニはなく、ほかの料理もない。
せっぱ詰まって最初に覚えたタイ語が「マイサイパクチー(パクチー抜きで)」だった。同時に「「マイサイナムケン(氷抜きで)」を覚えた。当時のタイの地方では飲み物に入っている氷にも注意しなければならなかったからだ。そして、これによって食生活は一気に解決した。
その後も、挨拶や数字に始まり、「トイレどこ?」や「~が食べたい」「~へ行きたい」「~が欲しい」など、日常生活に必要な言葉を一つ一つ覚えた。行ったり来たりの出張が終わるころには、一人で買い物に行って、食事をして、タクシーで帰ってこれるほどになった。
それが嬉しくて、休日になれば、いろんな所に一人で出かけた。すでに染織に興味があったので、タイシルクやチェンマイコットンの産地も旅した。が、そのどれもが聞き覚え。つまりは“耳コピ”である。正直のところ、正しく伝わっていたかも分からない。
そして、そのうちにアジアンブームは下火となり、次第に出張も減り、タイ語に触れる機会は失われていった。



そして、それからまた十数年の月日が流れ、齢50を過ぎた。当時は小さかった息子は巣立ち、さぁ!これから何をしようか⁉ と考えたとき、頭をよぎったのがタイ語だった。「えッ⁉ 染織を極めるんちゃうんかい⁉」 って、つっこまれそうだが、そうではない!
染織(物づくり)ばかりしていると、頭が疲弊するからだ。もはや染織や物づくりは趣味ではなくて仕事である。一日中、作ることばかりを考えていると、本当に疲れてしまう。歳をとって集中力はもとより、発想力や想像力も低下した。“物づくりから離れられる時間がほしい” と考えるようになった。
そんな話を知人にしたら「楽器か外国語ができたら人生観が変わる」といわれた。子供のころから音楽はダメだったので、“では外国語にしよう!と思ったとき、真っ先に浮かんだのがタイ語だった。
「そうや!あんとき、ちゃんと勉強せえへんかったタイ語をもっかい勉強しよう!」と。
毎朝、家を出て真っ先に向かうのが畑、そして仕事へ。それが終われば工房での物づくり――。さらに今春からは「阿波藍」の勉強も始め、ただでさえ忙しいのに、どこにタイ語を学ぶ時間があるのか?と自分でもそう思っていた。が、この春からネイティブにタイ語を教えてもらえるチャンスに巡り合えた。
とにかく、初めてみようと思う。そして、いつの日にか再びタイの織り物産地をのんびりと旅してみたい。
そして、この歳になって改めて “自分らしい人生を歩んでいきたい” と心から思う。