葛飾北斎の『富嶽三十六景』にちなんで始めた『あべのハルカス 三十六景』。第十二景となる今回は 「めがね橋」 の愛称で親しまれている『千本松大橋(せんぼんまつおおはし)』から眺めたハルカスの夜景です。
ひとつ屋のブログにいく度となく登場する木津川(きづがわ)。大阪市の西南部を流れる、「川」というより「運河」で、元禄12年(1699年)に河村瑞賢(かわむらずいけん)によって整備され、“天下の台所”や“水の都”さらには商工業都市へと変貌した大阪の水運を担ってきました。
水運に恵まれた都市として発展してきた大阪ですが、その一方で道路は運河や掘割で寸断され、すぐ目の前の対岸にもかかわらず、車では随分と迂回しなければならないことがありました。モータリゼーションが進んだ高度成長期になると、さまざまな支障をきたすようにもなります。この時代、多くの掘割が埋め立てられ、いくつもの大きな橋が掛けられました。千本松大橋も、そんな橋の一つで、昭和48年(1973年)に道路長は1228mにも及ぶ巨大橋として建設されました。
造船業が華やかだった建設当時、木津川沿いには数多くのドックがあり、千本松大橋の下を大きな船が行き交う必要がありました。そのため、、桁下高を満潮時でも33m以上とする必要があったため、橋の両端部を2階建の螺旋状にしました。この形状が、ご覧のとおり、メガネに似ていることから、近所に暮らす僕らは子供のころから、「千本松大橋」というより「めがね橋」と、親しみを込めて呼んでいました。
ちなみに、「千本松大橋」の“千本松”の名称は、江戸時代は木津川の堤防に沿って数多くの松が植えられていたことに由来しているそうです。
木津川の変遷
▼ 江戸時代の木津川。背景に松が植えられた堤防が描かれています。
▼ 明治時代の木津川。江戸時代のままの堤防が残っていたようです。
▼ ▼現在の木津川。随分と風景が変わりました。
時代とともに変化する木津川の景色――。ここからの眺めもまた随分と変わったことでしょう。江戸時代には四天王寺の五重塔、明治時代には通天閣が見えたのかもしれませんが、今ではその姿を眺めることはできません。それらに変わり、新たに登場したのが「あべのハルカス」――。大都会の夜景に浮かび上がる、ひときわ巨大な“時代のモニュメント”に“今”を感じずにはいられません。